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北欧神話に登場する巨大な狼フェンリル。神々でさえ手に負えなかったこの狼を縛ったのが、「グレイプニル」という不思議なひもです。鉄の鎖でも縛れなかった狼を、絹のひものように細くやわらかいひもが縛ったという話は、北欧神話の中でもよく知られた場面のひとつです。
この記事では、13世紀のアイスランドの詩人・歴史家スノッリ・ストゥルルソンが書いたとされる『エッダ』(『スノッリのエッダ』『新エッダ』『散文のエッダ』などとも呼ばれます)の「ギュルヴィたぶらかし」の章をもとに、グレイプニルの6つの材料と、フェンリルが縛られるまでの物語をたどります。
本文の確認には、プロジェクト・グーテンベルクで公開されている、ラスマス・B・アンダーソンによる英訳(1897年)を使いました。日本語のカタカナ表記は、本や訳者によって違いがあります。
フェンリルはどんな狼?
ロキの子ども
『エッダ』の「ギュルヴィたぶらかし」では、ロキと女巨人アングルボザ(アンダーソン訳ではAngerboda)のあいだに生まれた3人の子どもとして、狼のフェンリル、大蛇のヨルムンガンド、そしてヘルが登場します。神々は、この子どもたちが災いをもたらすという予言を知り、それぞれに手を打ちました。
アンダーソン訳の第34節では、大蛇は全ての陸地を取り囲む深い海に投げ込まれ、海の中で大きくなって大地を取り巻き、自分の尾をかむようになったと書かれています。ヘルはニヴルヘイムに投げ込まれ、病気や老いで亡くなった者たちを迎える役目を与えられました。そして狼は、神々が自分たちのもとで育てることにしたのです。
テュールだけが餌を与えた
アンダーソン訳の第35節では、狼は神々(アース神族)のもとで育てられ、テュールだけが勇気を出して近づき、餌を与えることができたと書かれています。神々は、狼が日に日に大きくなっていくのを見て、また、あらゆる予言が狼は神々にとって命取りになる運命だと告げていたことから、とても強い足かせを作って縛ろうと決めました。
鉄の足かせはすぐに壊された
1つめの足かせ「レーディング」
神々はまず、「レーディング(Lading)」と呼ばれるとても強い足かせを作り、狼に力試しをするよう持ちかけました。狼は、それほど強いとは思わずに縛らせましたが、足を突っ張ったとたん、足かせは壊れてしまいました。
2つめの足かせ「ドローミ」
次に神々は、半分ほど強くした「ドローミ(Drome)」という足かせを作りました。この足かせでも縛られなければ、その力で有名になれるだろう、と狼に話したそうです。
狼は、この足かせはたしかに強そうだが、レーディングを壊したときよりも自分の力も増していると考えました。そして、有名になりたいなら危険に身をさらすことも必要だと考えて、縛らせました。しかし、狼が体をゆすって地面にたたきつけると、足かせは壊れ、破片が遠くまで飛び散ったといいます。
アンダーソン訳では、このことから、何かがとても難しいときに「レーディングから抜け出す」「ドローミを打ち破る」ということわざが使われるようになった、と書かれています。
| 足かせ | 作った者 | 結果 |
|---|---|---|
| レーディング | 神々 | 狼が足を突っ張ると壊れた |
| ドローミ | 神々(半分ほど強くした) | 狼が地面にたたきつけて壊した |
| グレイプニル | 黒い妖精の国の小人たち | 狼を縛ることができた |
グレイプニルの6つの材料
小人たちが作ったひも
神々は、狼を縛れないのではないかと恐れはじめました。そこで、全知の父(オーディン)は、フレイの使いである若者スキールニルを、黒い妖精の国スヴァルトアールヴヘイムに住む小人たちのもとへ送り、「グレイプニル(Gleipner)」と呼ばれる足かせを作らせました。
アンダーソン訳の第35節では、グレイプニルは6つのものから作られたと書かれています。
1. 猫の足音
ひとつめの材料は、猫の足音です。猫は足音を立てずに歩く動物として知られていますね。
2. 女のひげ
ふたつめの材料は、女のひげです。
3. 山の根
みっつめの材料は、山の根です。
4. 熊の腱
よっつめの材料は、熊の腱(すじ)です。アンダーソン訳では「sinews of the bear」と書かれています。
5. 魚の息
いつつめの材料は、魚の息です。
6. 鳥の唾
むっつめの材料は、鳥の唾です。
| 材料 | アンダーソン訳の表現 |
|---|---|
| 猫の足音 | the footfall of cats |
| 女のひげ | the beard of woman |
| 山の根 | the roots of the mountain |
| 熊の腱 | the sinews of the bear |
| 魚の息 | the breath of the fish |
| 鳥の唾 | the spittle of the birds |
「だからこの世にない」という語り
この話を語るハールは、「もし前から知らなかったとしても、これが本当であることはたやすくわかるだろう。女にひげがないこと、猫の足音が聞こえないこと、山に根がないことを見てきただろうから」という趣旨のことを話しています。
つまり、グレイプニルの材料に使われたために、これらのものは世の中からなくなってしまった、という語り口になっているのですね。聞き手のガングレリ(ギュルヴィ)も、「証拠として挙げられたものは、自分にも確かめられる」と納得しています。
絹のひものようになめらか
ハールは、グレイプニルは「絹のひものようになめらかでやわらかい」ものだったと説明しています。見た目はとても細く頼りないひもだったわけです。神々が鉄の足かせで失敗したあと、まったく逆の発想で作られたひもだったことがわかります。
フェンリルが縛られた物語
アームスヴァルトニル湖のリュングヴィ島へ
グレイプニルが届くと、神々は使いの者に礼を言い、アームスヴァルトニルという湖にあるリュングヴィという岩の島に、狼を連れて行きました。神々は、この細いひもが見た目よりも強いと言いながら、互いに引っ張って試してみせましたが、ひもは切れませんでした。
狼の条件は「手を口に」
狼は、「こんなに細いひもを切っても名声は得られない。しかし、もしこれが策略で作られたものなら、どんなに細く見えても足には巻かせない」と答えました。神々が「たとえ切れなくても、すぐにほどいてやる」と言うと、狼は「本当にほどけなくなったら、お前たちは助けてくれないだろう」と疑います。
それでも臆病者と言われないために、狼は条件を出しました。だれかひとりが、これが策略ではない証として、自分の口の中に手を入れること、という条件です。
テュールが右手を失う
神々は顔を見合わせ、だれも手を出そうとしませんでした。そのとき、テュールが右手を差し出し、狼の口の中に入れました。狼がもがくと、ひもはますます固くなり、力を入れるほどきつく締まっていきました。
アンダーソン訳では、テュール以外のみんなが笑ったが、テュールは手を失った、と書かれています。最初に狼に餌を与えたテュールが手を失うという結末には、なんともいえない重みがありますね。
岩に固定され、剣で口をふさがれる
神々は、足かせにつながる「ゲルギャ(Gelgja)」という鎖を、「ギョッル(Gjol)」という大きな岩に通して、地中深くに固定しました。さらに「スヴィティ(Tvite)」という大きな石を、もっと深く打ち込んで留め具にしました。
狼は口を大きく開けて暴れ、かみつこうとしましたが、神々は剣を口に入れ、柄を下あごに、切っ先を上あごに当てて、口をふさぎました。狼はひどく吠え、口から流れるよだれは「ヴァーン(Von)」という川になったといいます。そして、狼はラグナロクまでそこに横たわっている、と語られています。
なぜ神々は狼を殺さなかったの?
ガングレリは、「災いが来るとわかっているのに、なぜ神々は狼を殺さなかったのか」と尋ねます。ハールは、神々は自分たちの聖なる場所と平和の地を大切にしていたので、たとえ予言で狼がオーディンの命取りになると告げられていても、狼の血でそこを汚そうとはしなかった、と答えています。
この答えからは、神々が自分たちのきまりを大切にしていたことと、それでも予言された運命からは逃れられないという、北欧神話らしい世界観が感じられます。
グレイプニルでよくある質問
グレイプニルは鎖?ひも?
アンダーソン訳では「fetter(足かせ)」と書かれていて、見た目は「絹のひものよう」と説明されています。日本語では「足かせ」「ひも」「鎖」などさまざまに訳されることがありますが、作中の描写では、細くやわらかいひもだったことがわかります。
材料はなぜ6つなの?
『エッダ』の本文では、6つのものから作られたと書かれているだけで、なぜ6つなのかについての説明はありません。材料の多くが「この世にないもの」「聞こえないもの」である点が、このお話のおもしろさといえそうです。
ラグナロクでフェンリルはどうなる?
アンダーソン訳の第55節では、ラグナロクのときに大地と山々が激しく揺れ、あらゆる鎖や足かせが切れて、フェンリル狼が自由になると語られています。狼は口を大きく開けて進み、上あごは天に、下あごは大地に届き、場所があればもっと大きく開けただろう、とまで書かれています。
続く第56節では、オーディンが狼に向かっていき、最後には狼がオーディンをのみこんで死なせてしまいます。しかし、「寡黙なアース神」と紹介されるヴィーザルがすぐに狼に向かい、片足で下あごを踏みつけ、片手で上あごをつかんで口を引き裂き、狼は滅びる、と語られています。ヴィーザルの足には、昔から人々が靴を作るときに切り落としてきた革の切れ端を集めて作られた靴がはかれていた、とも書かれています。ハールの答えにあった「狼はオーディンの命取りになる」という予言は、ここで現実になるのですね。
なお、テュールはラグナロクで、犬のガルムと戦って相打ちになると語られています。
日本語で読むには?
『エッダ』は日本語訳も出版されています。訳者によって固有名詞のカタカナ表記が違うことがあるので、読み比べてみるのもおもしろいですよ。
グレイプニルの材料を知ると北欧神話がもっとおもしろい
グレイプニルとフェンリルの物語を、もう一度まとめておきます。
- フェンリルはロキの子どもで、神々のもとで育てられ、テュールだけが餌を与えた
- 神々の作った足かせレーディングとドローミは、どちらも狼に壊された
- オーディンはスキールニルを小人たちのもとへ送り、グレイプニルを作らせた
- 材料は、猫の足音、女のひげ、山の根、熊の腱、魚の息、鳥の唾の6つ
- グレイプニルは絹のひものようになめらかでやわらかかった
- テュールは誓いの証として狼の口に右手を入れ、その手を失った
- 狼はラグナロクまで縛られていると語られている
見た目は細いひもなのに、どんな鎖よりも強い。グレイプニルの話は、知恵や工夫が力に勝つ物語としても読むことができます。6つの不思議な材料を思い浮かべながら、北欧神話の世界をもっと楽しんでみてください。